2009年6月17日水曜日

リトアニアのソバ(★)

6月17日

リトアニアは、エストニア、ラトビアとともに、バルト海に面した国で、近代以降三国ともロシア帝国に支配され、ロシア革命ののち、1918年に独立したが、第二次世界大戦中はソ連とドイツに占領され、大戦後は1980年までまたソ連の社会主義共和国として連邦政府の強い統制化に置かれるという、似たような運命をたどった国である。
エストニアについては6月8日に一寸触れたが、この三国の現状についてはおいおい記すことにしたい。

実は三国のうちのラトビアがソバの生産量は最大である。次はエストニアで、リトアニアは一番少ない。
「L」の付く国を取り上げるなら、ラトビア(Latvia)の方が適当ではないかとお感じになるだろう。全く尤もなご意見である。
にもかかわらず、私は今日はリトアニアにしたい。気まぐれなとお叱りになる前に、一寸お聞き頂きたい。

リトアニアは1430年頃から貴族階級はポーランド文化に同化していき、1589年にはポーランド・リトアニア共和国という政治的統一体となり、領土はヨーロッパ第一の大国となった。その後は1795年のポーランド第3次分割によってポーランドが消滅するまでポーランドと運命をともにした。

「それがどうした? ヨーロッパならその程度の話はざらにあるではないか」

ポーランドはでは当時西ヨーロッパ諸国へコムギ、ライムギを輸出して穀物庫の役割を果たしており、ポーランド国内ではソバが多く食べられていた。農民のみではなく、貴族、王室でさえである。
ポーランドの農業とその輸出がもたらした諸々については、後にポーランドの項で述べたい。何れにしても、ポーランド・リトアニア共和国の中では、ソバのレシピが成長していったと見て間違いないだろう。
これが、私の興味をひく点の第一である。

ところでその頃、地球の裏側の日本では、ソバキリが生まれる。
日本のそば切りの最古の記録は木曾の常勝寺で発見されたもので1574年である。
1643年の「料理物語」には、「めしのとり湯でこねる。又はぬるま湯にても又豆腐をすりて水にこね申す事もあり・・・」。そして、茹でるのではなく、蒸しそばであった。
売り歩くのも、棒手振り(日本の項参照)から、屋台へ、そばの専門店へと進化している。そばのたれも、味噌だれから醤油たれへ、名前も夜鷹そばから風鈴そばへ・・・

地球のあちら側とこちら側の違いは、日本はソバ粉を細い麺にする努力だったが、向こうはソバの殻を剥いた粒、カーシャの料理である。

日本では、味噌にしても醤油にしても、大豆製品が味付けに使われているのにたいして、あちら側では、ミルクやチーズなどの乳製品とか鶏卵である。

日本人がソバの香りを楽しむのは判るが、チーズの強い香りの中にソバの香りを感じるヨーロッパ系の感覚がまだ一向にわからない。しかし、この事が民族とソバのレシピを見ていくのに重要にも感じられるが・・・

とにかく、リトアニアのソバに影響を及ぼしたろうと推測されるポーランドの人々の末裔は、ソバ好きである。 
一週間ばかり後で訪ねたい。

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