2011年6月26日日曜日

「視座」のような

今の日本の大変な時期に、私の視座とかいって、ソバの話を始めるのは、何だか不真面目なような気がしないわけではありません。でも、こんな時だから、自分の底に何が有るのか。これなら自分の正直な気持ちだから、頑張れるとかを確かめておきたいと思えます。

「蕎麦」という言葉が引き連れてまわる、一種の外出着のようなものが、どうも私には納得出来ないからです。ソバという作物も、ソバを大切にしてきた人々も、それを望んでいないように思えまして。つまり、生物学的にも、歴史的のも、「蕎麦は伝統的な日本の食文化である」といわれる時に含まれる意味は、私の見ているソバちゃんと違うということなのです。
何とまー 奇妙な言い方でしょうね。
でも、私の好みのようなものを先に申し上げておかないと・・・

綺麗な新築の、非の打ち所のないようなお蕎麦屋さんで食べるより
一寸汚い、古ぼけた店で、それも一見頼りなそうなおばあちゃんが打った
半分伸びかけたようなのが、好きなのです。

もとも、蕎麦だけではなくて、定食でも、カレーでも、何でも同じです。

フランスで、星の数の多いお店より、パリの裏町のオニオンスープが食べたいと、短期間の滞在に、観光めぐりは取りやめて、以前にひょっこり入った店を探し回って迷子になったりするのですから。

トルコは美味しい料理が多いところだと思います。ホテルのすぐ前の、落ち着いて食べられるような店でランチをとるのを続けていても、一寸ゆとりが出来ると、少し離れた場所にある労働者の食堂へ出かけてました。ここで「ゆとり」というのは、変な使い方のようなものですが。男達がひしめく労働者の食堂へ一人で入って行くのには、やっぱり一寸勇気が要ります。如何に私でも。

労働する男たちの真ん中へ入って行く時のためらい。これはむしろ海外より国内の方が大きいようです。どちらにしても、ジロジロ見られるのですが、ジロジロの中に、異国人に対する物珍しさが混じっていると考えておく方が、随分気楽だと感じるかあでしょうね。

こんな話は数限りないのですが、それらはさて置くことに致しまして、私が何故そんな目のにたじろぎながらの行動をとるかの話です。私は、ものの美味しさは、命を守るために料理する、極めて原始的なところにあるように感じられて仕方がないからなのです。
あるいは、戦後の日本の食糧不足の中で、美味しい・不味いの言えなかった頃に、染み付いてしまった私の問題かも知れませんが・・

だから、とにかく、ソバの料理も、素朴なもの美味しさも興味も惹かれる。
日本の蕎麦に人生を賭けるとまで言わせる蕎麦文化を築き上げてきた方々に、敬意を払わないわけでは有りません。ただ、私のSOBA日記の中で綴られる数々が、上記のような私の好みとでも申しておきましょうか。その点をご理解頂きたいと存じます。

またまた追記
前半は投稿日、後半は7月2日 なおかつ単なる殴り書き ゴメンナサイ

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